それを何と呼べば良いのか

これは大倉君が昨日まで出演していた舞台「夜への長い旅路」の感想であるとともに、私を育ててくれた家族への手紙でもある。

 

冒頭から母、メアリーと父ジェイムズは息つく暇もなく会話を続けている。

体重が増えただの土地を買う買わないだのいびきが大きいだの一見他愛もない夫婦のやりとりに見えるが、ジェイムズは妻の機嫌を損なわないよう気を配り、一方のメアリーも自分自身をなだめながら話していて、双方どこか落ち着かない。

メアリーが話の合間に挟む上ずった「ふふっ」という笑い声が彼女の神経がギリギリであることを示している証拠のように聞こえるし、ジェイムズはそんなメアリーを愛しさというよりも憐憫の情で眺めていてそれが夫婦だけではもはや解決できない問題を抱えているのだなと示唆される。

 

そこへ息子達がやってくる。

 

長男ジェイミーは片頬に皮肉な笑みを浮かべつつも鷹揚とした雰囲気を醸し出そうと努力している。父親には反発するが母親に対しては心配そうな眼で様子を常に窺う。

次男エドマンドは兄より幾分身長は高いが線が細く始終咳き込む。聡明さと稚拙さのアンバランスが両親の庇護を誘うのだろう。

 

吝嗇家の父ジェイムズ。

薬物中毒のメアリー。

アルコールに溺れて働かないジェイミー。

結核の末っ子エドマンド。

 

この家族の物語は私に見覚えのあるものだった。

 

 

私が物心ついた時から母はいつも酒を飲んでいた。

仕事から帰ると夕飯を作る前にまず一杯。勿論一杯では終わらずどんどん量が増えていく。

少しして父が帰宅すると、必ず父に悪態をつき喧嘩になるが最後には父が折れてなだめて泣いている母を寝かしつけにいく。

 

私と年子の弟は中途半端に作られた夕飯を黙って食べ、息を殺して子供部屋へ戻る。

すると寝たはずの母が私達の部屋へ来てまた泣きながら父の事や父の母の事を罵り

弟にだけ「ごめんね。こんなママで」と謝るのだ。

 

舞台を観ている間、「もし、ジェイミーが女の子だったら、ママの愛を諦められたのかもしれないな」と思っていた。

 

父親に無能呼ばわりされ母親からは関心を持たれず弟のエドマンドだけが二人の「お気に入り」である事に目を瞑り生きようとしても最後までそうできなかったジェイミー。

それは男の子だったからかもしれない。

 

私は早々に母からの愛を諦めた。

というか諦めた振りをしていたらいつしかそれが本当になっていった。

「長男」として「立派に育てなければならない」弟を両親が自分より大事にするのは当然だし、私は結婚するしないに関わらずいつかこの家を出なければならないのだからとそう思っていた。

でも、「長男」であるジェイミーは、メアリーとジェイムズから期待をかけられた時期もあったのだろうしそれを感じる時もあったのだろう。

 

私にはそういう時はなかった。

 

人並みに学校へも行かせてくれたし多少躾という名の暴力も受けたがそれはあの頃どこの家でもある事だったからさほど気にならなかった。

 

ただ、「女の子」であることだけを望まれた。どんなに勉強を頑張っても習い事を懸命にしても「女の子」として生きる事以外は全く期待されなかった。

 

高校から短大へ行き卒業後は三年位お勤めしたら職場結婚もしくは親のおめがねに合う人とお見合いをして寿退社。子供(できれば男の子)を産んで子育てが落ち着いたらパートをして家計を助ける。

 

この生き方を否定している訳ではない。

むしろそういう風になりたかった。親の為に。

 

でもそうしてあげる程、親を愛していなかったのかもしれないなあと苦悩するジェイミーを見てしみじみ感じた。

メアリーとジェイムズの期待通りには全く生きられなかったジェイミーだが、そういう自分を誰よりも嫌悪していたのはジェイミー自身だったのだと、ラストのエドマンドへ発した血を吐くような語りでそう強く思わされた。

両親と弟を愛しているが故の計り知れない苦しみ。

 

あともう一つ感じたのは、メアリーは家族の愛情の中心であったのだなという事だ。夫と息子2人の重くはあるが熱烈な愛を彼女は最後には受け止めきれず放棄してしまったのだけれど、でもその愛が心地よかった瞬間も確かにあったと思うのだ。

 

母は、多分、父と弟の愛を独占したかったのだと思う。メアリーのように。

それには同性である娘の私は必要ではなかったのだろう。

 

母が酒に溺れれば溺れるほど父と弟は母の傍を離れられなくなった。

そうして母は数年前鬼籍に入った。

自分の病名を知らされることなく。

あんなに母が愛した父も弟も最期を看取る事はできなかった。

 

 

この物語は確かに悲劇ではあるけれど、何にも代えがたい愛の記録でもあると思う。

 

 

大倉君が舞台で流した哀しくも美しい涙を見て、自分も母の為に泣けていたらなと、涙が止まらなかった2021年6月14日であった。

 

 

 

 

 

 

「7人が歌う僕のうた」

昨夜、草野マサムネさんのラジオで「Tokyoholic」が流れた事を知り、リクエストをした方のコメントを含め拝聴した。

 

聞いたあと、すぐ思い出した亮ちゃんの言葉があったので少し長いのだが一部抜粋し、引用させていただく。(朝日新聞夕刊2010年2月12日より)

 

題名  「7人が歌う僕のうた」

(前略)去年のクリスマスに出したCDに僕とヤスが作った曲が入っています。(中略)まさかCDになるとは思っていなかったけど、関ジャニ∞は7人組やし、メンバー1人ひとりを思い浮かべて7人分のパートを作りました。いつかみんなで歌えたらいいなって。

 

(中略)曲のパートは、大倉は低音がかっこいいから低いところ、ヤスは高いところ。ヨコ(横山)と村上君はわかりやすいところ。ヤスで始まり、ヤスで終わります。いままでそういうパターンの曲はなかったので、2人で一緒に作った曲だし、そうしたかったんです。

大倉は難しいと言い、すばる君はベースラインがかっこいいなって。

自分で作った曲を1人で歌うのは何度もあったけど、みんなが歌うのは初めてでした。厚みも増したし、うれしかったですね。

 

 

上記は「SnowWhite」について語ったものだが、「Tokyoholic」は勿論、彼がグループの為にメンバーの為に作った曲は皆そうだったんだろうなと久しぶりにこの熱い歌を聴き、そう思わずにはいられなかった。

 

 

 

5人になった関ジャニ∞は、試行錯誤を重ねながらそれぞれの歌声のスキルを上げるべく、多忙な日々の隙間を文字通り縫うようにしてボイストレーニングに通っている。

その様子は「関ジャム」で放映されたあの回にあるように記憶に新しい。

放送当時は通っていなかった村上君もその後始めたそうだ。

 

音楽には門外漢の私でも、7人時代の曲を5人で演奏しながら歌うのは至難の技であると容易に想像できる。

綿密に練られたであろう歌割を一度解体し、振り分け直し、更にヤス君は3人で担っていたギターを1人でこなさなければならない。

47ドキュメントの映像にはその苦闘が映っていた。

 

だからと言って、彼らは関ジャニ∞を去った二人が音楽をする上で、グループの主軸と定めていたのであろうバンドスタイルをないがしろにしてはいないと思う。

「歌」に重きを置いている今はそちらに心血を注いでいるため、また、5人としての新たな世界を生み出そうとする気概の結果として、シングルも歌を中心とした楽曲が続いているが、関ジャムセッションが始まり、ライブが行われるようになると自然に彼らの手に楽器は戻ってくるのだろうと信じている。

 

あともう一つ。

またもや引用で恐縮だが2017年「ジャム」発売時に掲載された「音楽と人」におけるヨコさんのインタビューが時を越えて、今の5人の道標となっている部分があるのではと感じているので記させて貰う。

 

 

(バンド活動について)正直最初は、自分の得意なことに軸足を置きたいな、と思いましたけど、僕らは足並み揃えて、一緒のベクトルに向かってやらなきゃいけないんです。いつだってそうでした。だから、関ジャニ∞ってギラギラしてるんじゃないかなって思います。

 

バンドに限らず、歌然りバラエティ然りライブ然り関ジャニ∞を続けていこうとする中での核になるものがこの言葉に込められていると勝手ながら考えているし、だからこそ彼らはグループを続けているのだと思う。

 

 

 

亮ちゃんが関ジャニ∞の為に作った歌が好きだった。

いや今も好きだ。

けれど、その曲はもう7人で奏でられることはきっとないのだろうし、5人で歌われることも演奏されることも多分ないのだろう。

これからは亮ちゃん自身が1人で伝えていくその歌が、始めは7人の為に作られた事を胸にしまいつつ、関ジャニ∞が7人の時の歌を5人で歌い継いでいくように、亮ちゃんも1人で歌っていくのだろう。

 

新しい、亮ちゃんだけの「Tokyoholic」を。

 

箱推しはつら(くな)いよ

先日長女に聞かれた。

 

「お母さんは、関ジャニのお兄さん達の中で誰が一番好きなの?」

 

3才頃から大相撲をこよなく愛し、今現在も愛し続ける彼女は相撲そのものに情熱を捧げているいわゆる箱推し。

けれどそんな長女にも別格のご贔屓力士がいる。

「相撲の神様」こと双葉山だ。

(娘は敬愛の意を込めて本名である「定次」と呼ぶ)

定期入れに双葉山の相撲カードを忍ばせてお守りにし、辛い時には心の中で

「定次」に語りかけているとの事。

彼女にとっては本当の神なのだ。

 

だから母親である私に「関ジャニ∞というグループ全体が好きなのはわかるけどでもやっぱり5人の中で特別に好きな人いるよね?ね?!」と聞いてきたのだと思う。

 

問われて考えた。

 

一番好きな人?

 

この点に関してはエイトさん達を好きになった当初からなんとなしに引け目を感じていた。

彼らの中の一人に惹かれてそこからグループを応援するようになったのではなく、びっくりするぐらい無邪気に楽しそうにわいわいする全員の姿に惹かれてファンになった私には「自担」がいなかった。

でもそれが悪い事だとは思っていなかったし、今もその気持ちに変わりはない。

 

けれど、自分の中に「この人だけ」がいるのは強いな、とも思っている。

 

グループでの仕事は勿論嬉しい。

だけど自分が大好きな人の個人仕事はもっと嬉しい。

だって彼は私にとって「特別な人」なのだから。

 

この気持ちは箱推しである私の何倍も何倍も尊く眩しく映るし、彼らにとっても「5人全員ではなく自分だけを見てくれる」ファンの方が当然好ましいよなぁと思う。

 

だからといって、無理に「自担」は作れない。

私が堕ちた沼は「関ジャニ∞」なのだから。

 

不惑を迎えてもなお美しさを増す美貌を誇示するでもなくむしろ困惑している風情がますますその姿を際立たせる、ストイックな「関ジャニ∞」の頼りになる長男、ヨコさん。

 

熱い想いは胸に秘め、淡々と堅実に完璧に恐ろしい量の仕事を遂行する一方で、グループに戻ると一気に可憐なヒナちゃんになって見る者の胸をしめつける村上君。

 

ヒャダインさんが以前雑誌で述べていた「関ジャニ∞の色を作る大きな要は丸ちゃんなのかなって、その時思いましたね。すごいムードメーカーなんだろうなって」としてグループに在り、その葛藤と逡巡と歓喜とが立ちのぼる色気となって象られている丸ちゃん。

 

どんな強い風雨にさらされても折れることのないしなやかで柔らかで強靭な木。その眼差しは、単に優しいだけではなく厳しさもたたえているからこその真実であるとこちら側に教えてくれるヤス君。

 

見る者全てを圧倒する容姿と何物にも秀でた才がある体の芯に詰まっているのは努力努力のみ。豊かな笑顔と笑い声を持ち、お兄ちゃん達が大大大好きなエイトの末っ子大倉君。

 

みんな好き。

みんな大好き。

みんな大好きだーーーー!!!

これからもずっと箱推しでーーーす!!!

 

そんな私が箱推しをする上で大事にしている言葉がある。

 

「我々がキャッキャしてるのを『こいつらなんで笑てんねやろっていうぐらいのところから目を向けてもらえれば。休み時間の教室で『あの集団ってなんかしらんけどいっつも楽しそうやな、なんで遊んでんねやろ』っていうような感覚で」

 

ある雑誌の村上君の言葉だ。

 

彼らがこう思ってくれている事が箱推しにとっての醍醐味であり幸福に他ならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きな花はコスモス

五ヶ月に渡りエイターへ贈られた(と、思っている)日経エンタテインメント連載「魂の歌」を読み終えた。

 

次号、全員揃ってのインタビューを読んでから感想を書こうかなと考えていたが、その前にひとつ思ったことをつらつら記す。

非常に自分勝手な、妄想に近い感想。

 

 

「なぜ彼らは関ジャニ∞を続けようと思ったのか」

これは二人が辞めたあと、ずっと頭の片隅にあった疑問だ。

その答えは「ぼち夜」で大倉君が発した「5人をあきらめていない」に集約され、それが全てでもあったと思う。

また、折に触れ各自が様々な場所で語った「ジャニーさんへの恩返し」であり「(関ジャニ∞は大きくなりすぎて)もう自分達だけのものではない」も大きな理由であったのだろう。

 

けれど、どこかで

「アイドルでいることが枷になっているのではないか」

「全員ソロで充分やっていけるのではないか」

もっと言えばすばる君や亮ちゃんのように、自分に決定権がより多くある道を選んだ方が幸福度や満足度が高いのではないか。

との思いが拭いきれなかったのだ。

 

その傲慢で身勝手ではあるが、ちくちくと胸に刺さっていた疑問をこのインタビューは一つ一つほぐしていってくれた。

 

まず驚いたのがヨコヒナの考えが真逆であった点だ。

 

すばる君の脱退が決まった時、

ヨコさんが「解散は全然考えていなかった」であったのに対し

村上君は「すばるが抜ける、イコール、閉じなきゃいけないんだ」と考えていた。

 

この文を読んだ時、自分が全くの思い違いをしていたことに気がついた。

会見やその後雑誌等で語られた言葉から、ヨコさんの方がグループ存続を困難であると捉え、村上君の方が継続に迷い無しであるのだろうと思っていたからだ。

それはヨコさんが解散したがっていたというのではない。

リーダーという名称ではないが、グループを引っ張り愛し育て、守ってきた最年長の彼がすばる君というかけがえのない仲間を失った後、そのまま続ける事をよしとしないのではなかろうかと感じたのだ。

そしてそんなヨコさんに村上君が「そんなん言わんと続けようや!」と励ましていたのではないかと・・・

 

しかしそうではなかった。

  

そう、それにパブリックイメージとは異なり、村上君は「支える人」であり「引く人」でもあったのだ。

一見、前へ、前への印象があるがインタビュー内にあるように「他者を盛り上げ、引き立てる才能のある人」なのだ。

その彼が大きな柱であるすばる君と「袂を分かつ」ことになった時に、閉じなければならないと考えたのは必然だったのかもしれない。

 

対して、年下組はどうだったのだろう。

 

ヤス君は5人の中でも、割合早い段階で二人の事を受け止めていたように思う。

彼の代名詞とも言える「優しさ」や「穏やかさ」とは別の冷静さでもって。

繰り返すが、あくまでもこれは彼らが表に出してくれた媒体から私が感じた超主観的なものに過ぎず、こうしてぐだぐだ書いていても本当の事には永遠にたどり着けないと自覚している。

 

その上で思う。

 

「諦念」ともまた違う、かと言って「赦し」でもない。

 

いっそ「祝福」さえも感じさせる、ヤス君が発する去りゆく二人への言葉に漂うもの。

 

このまま7人で、新体制になってからは6人で頑張って頂きを目指そうとする姿勢は皆と同じだったのだと思う。

けれどいち早く

「彼を止めることはできない」

「一度決めたことを曲げない人だから」

をすばる君に(多分亮ちゃんにも)対し思っていたのであろうヤス君は、道の違えをのみ込み次の航路へと舵を切ったのだ。

そうして二人を見送り、出港したのだと思う。5人が乗る船で。

 

 

さあ、大倉君だ。

誌面で堂々と「グループ至上主義」と述べ「グループがなくなったらこの仕事を続ける気はない」と断言した彼は、見聞きし得る限り最も感情の揺れをこちら側に見せてくれた人。

 

顕著なのはすばる君の会見でのあの見事な仏頂面だ。

納得も同意もしていない様子は言葉の端々にも見受けられたが、何と言っても渾身のふてくされ感と心ない質問に対する容赦無い視線が彼の気持ちの全てを物語っていたと思う。

 

後日、「大倉くんと高橋くん」で「子供だった」自分の態度を反省していたが、主にラジ(しかも生放送)を通して素の気持ちをファンに伝えてくれた彼の一言一句に何度も救われた事を、今も鮮明に思い出す。

 

その揺れを経て、「関ジャニ∞」を改めて続ける気持ちを強くした彼が、丸ちゃんの言うように「今、ブレーンとして活躍してくれているのは完全に大倉ですね」なのは至極当然の事なのだと頷く。

 

 

丸ちゃんのインタビューだけ少し趣きが違ったように思う。

はぐらかしている訳でも言いよどんでいる訳でもなくあたたかい語り口で真摯に答えているのに、どこかふわっとしている。

すばる君の事も、4人が余り語らなかった亮ちゃんの事も情感を持って語ってくれていて、一番今までの事を詳細にリアルに話してくれているのにも関わらず、最後までその空気は変わらなかった。

 

それは丸ちゃんが、ファンそれぞれの中にある「私が知っている関ジャニ∞はこう」という想いを「汚したくない」と思ってくれているからなのかもしれない。

 

自分はこういう風に思ってやってきたけれど、そう受け取らない人もいるよね、が見え隠れしている。

 

グループを続けた事についても、核心には触れていないように感じた。

 

けれど、そこが丸ちゃんの魅力の一つなのだとも思う。

 

 

それにしても実に濃くて読み応えのある連載だった。

来月の最終回が、待ち遠しくもあり終わってしまうのが寂しくもある。

5人揃ってのインタビューでは何が語られるのだろうか。

 

 

先日手にしたパンフレットにあぁ、と思う言葉が載っていた。

 

 

「花はひとつだけで綺麗っていうより、いっぱいで連なってて綺麗っていうほうが好きなんですよ。(中略)細い茎にいっぱい花がついて、花畑とかにぶわーっといっぱい咲いてて綺麗な。」

 

若き日の大倉君のこの言葉が、関ジャニ∞というグループなんだと。

 

誰がために呟くのか

前のアカウントを削除して四か月。

少し時間が経ったのであの頃の事をぼんやり振り返ってみようと思う。

 

別のブログに書いたが、ツイッターを始めたきっかけは関ジャニ∞のファンアートを描かれていたAさんの作品を読みたかったからに他ならない。

 

当時は完全な閲覧アカウントで自らが呟く事は無く、ひたすらAさんの作品を読むだけだった。

 

そのAさんがツイッターを去った後、「このアカウントをどうしようか」と考えた。

Aさんだけをフォローしていたアカウント。

彼女がいなくなったのなら存在意義もなく即座に消してしまおうと思った。

 

でも待てよ。

 

私も何か呟いてみよう。

 

何の気なしにそう思いぽちぽちと関ジャニ∞への気持ちを打ち込んでみた。

 

昨夜見た彼らの出演番組やら今日買った雑誌の感想やら中学生以来に書く倒れそうな程

独りよがりのポエムやら勝手に妄想したキャンジャニちゃんの学園生活の一コマやらを限られた字数の中に押し込めて書いてみたら、楽しくなって止まらなくなった。

 

壁打ちの気安さで(公序良俗に反しない範囲と自らに言い聞かせて)あれもこれもと彼らへの思いを文字にする日々。

 

自分の気持ちを言葉にするのってこんなに楽しかったんだなぁとそれは驚きでもあった。

 

しばらくして、ある方が私をフォローしてくれた。

一日の終わり寝床に入って「さぁ今日も関ジャニ∞へのこの持って行き場のない感情を吐露するぞ!」と一人意気込んでツイッターを開くとゼロだったフォロワーの数が「1」になっているではないか。

 

何度も見直した。

本当に??

そもそも自分の愚にもつかぬ呟きの数々を見ていた方がいたの?

ぎゃーーー恥ずかしいーーー!!!

だったら鍵アカウントで呟けよ!と言われたら何の申し開きも出来ないのだが、星の数ほどあるアカウントの中で私のツイッターを読む人なぞいるはずないだろうと思っていたのだ。

 

しばし呆然としてから「お返事をした方が良いのかな」と考えた。

壁打ちに勤しんでいたもののやはり誰かが見てくださるのは嬉しい。

しかもその方は私の娘達とさほど年の変わらぬお嬢さんらしい。

母親ほどの年齢の人間だと知られたら引かれちゃうかな・・と逡巡したが思い切って返信を送ってみた。

するととても優しい言葉が返ってきた。

恥ずかしながら布団の中で嬉しくてちょっと涙ぐんでしまった。

勿論その方を自分もすぐフォロー。

素直で愛らしくて且つ理知的な彼女の呟きとブログに感動し「こんな素敵な人にフォローしてもらえたんだ・・」という喜びでいっぱいになったことを今も鮮明に覚えている。

 

それから少しずつ「この方の呟きいいなぁステキだなぁ」「めちゃくちゃ素晴らしいイラスト!」と思った方々をフォローさせてもらうようになった。

 

Aさんの世界が全てだったあの時とはまた違う、陶酔感やワクワク感がTLに流れるようになりもうすっかりハマってしまったのだこの場所に。

 

そうこうするうちにフォローして下さる方がぽつりぽつりと増えてきた。

ヨコさんをすばる君を村上君を丸ちゃんをヤス君を亮ちゃんを大倉君を、そして私と同じ関ジャニ∞グループ全体をそれぞれ熱烈に応援し愛する方達の呟きが溢れる画面は壮観で、しかも毎日その光景が更新されるという幸福に酔いしれる日々だった。

 

次第に妙な使命に駆られてきた。

私もこの素晴らしいTLにふさわしい呟きをしなくては。

今思うとこの辺りからボタンの掛け違いが始まったのかなと思う。

誰に頼まれた訳でもなく誰に強制された訳でもないのに自分で勝手に

出来るだけ良い呟きをしなくては!と考えたのだ。

「良い呟き」ってなんだよって話ですが。

その時考えたのはとにかく「関ジャニ∞」の事だけ呟こう。彼らの愛しいところカッコいいところを呟こう。無論肯定できない部分もあるがそこもなるべく冷静に愛をもって呟こうという「枷」を自らに作ってしまったのだ。

 

こんな風に書いてしまうと「無理やり彼らを褒めていたのか!」と誤解をされてしまうかもしれないが、決して無理にではなかった。

 

ヤス君の病気と怪我、すばる君と亮ちゃんの脱退、深く重い時期にも歩みを止めなかった彼らの生き様に心震えしがない1ファンではあるがどうにか彼らの輝きを伝えられないものかと思っていたのだ。

それは5人だけではなくすばる君と亮ちゃんも同様に。

 

呟きの熱量と共にフォローして下さる方が過分に増えてきた。

時々驚く位の「いいね」 がつく事もあった。

 

それと比例するように私の呟きに否定的な言葉も多く目にするようになってきた。

 

それまで大好きで片思いフォローしてきた方に急にブロックされた時は心底落ち込んだ。

これは全くの被害妄想なのだが惚れ込んでフォローしてきた方々に距離を置かれているような気までしてきたのだ。

 

大丈夫か自分。

 

 

私はAさんの事を思い出した。

おこがましいかもしれないが、Aさんもこんな気持ちだったのかな。

関ジャニ∞が大好きなのに大好きって言えなくなってきたのかな。

それでアカウントを閉じてしまったのかな。

 

そんなこんなでわたわたしている中あるトラブルに見舞われこれを機にアカウントを削除することに決めた。

 

寂しさもやるせなさもあった。

たかがツイッターされどツイッター

小さな画面の中にあった世界に自分がいかに依存していたかを突き付けられた。

でも消した。

 

 

 

そうして今は誰のためでもなく自分のために呟いている。

愛しい関ジャニ∞の事を。

 

 

 

 

 

 

うつくしい女達 ~窮鼠はチーズの夢を見る感想①~

優しくマメで器量が良く仕事も出来、でも残酷な部分も覗かせる魅力的な彼の目を自分に向けさせたい、と奮闘する男女の様が画面を覆っていた二時間余。

 

だからその「愛」の駆け引きの中心に恭一はいなければならないしいるべきだと思いながら観ていたのだが、一向にその気配が感じられない。

 

顕著なのは妻、知佳子。交際時や新婚当初はまた違っていたのかもしれないが、現在は浮気相手と一緒になるべく離婚時に少しでも慰謝料を引き出したいと思い、恭一にも不貞が無いかどうかを調べる為、興信所に彼の素行を依頼する。

表向きは部屋を整え家事も完璧にこなし夫の留守を預かる妻を演じつつ、心中にあるのは恭一への嫌悪と罪悪感と憐憫だ。

彼女にとって恭一は既に自らが幸せになるため利用後すぐ捨ててしまう駒の一つにすぎないと言ったら言い過ぎか。

知佳子の中には今付き合っている相手と自分の世界しかない。そこへ恭一が入り込む隙間は無い。

けれど最初からそうだったのではなく、彼女にも恭一と二人で築いていきたい、育みたい何かがあったのだと思う。

それは「家庭」や「子供」や「夫婦」の名でいっぺんに括られるものではなくもっと曖昧なものだったのかもしれない。

けれど、時間を重ねる事でその曖昧なものを「愛」と呼ぶものに近づけようとしていた時期もあったのではなかろうか。

だが、恭一にその気がない事が一緒に暮らしている内に嫌でもわかったのだろう。そしてそんな恭一を変えようとするだけの愛情がもう自分にも無いという事も。

 

恭一は、知佳子が浮気をしているなんて微塵も思っていなかった。自分の浮気が発覚し「大切にしたい」と思っていた知佳子との関係が破綻するのを怖れていた。

知佳子からすると笑止千万だろう。

「恭ちゃんは非の打ちどころのない旦那様なんだね」と知佳子は言ったが、別の女の影を見逃すほど知佳子は無邪気ではなかったと思う。2年付き合ってからの結婚であったのだし今ヶ瀬のいう「可愛らしくて、でもしたたかで、いかにも女の子らしいコ」であれば尚更だ。

他の女の香りと気配を漂わせて帰ってくる恭一が、自分を「大切にしたい」と思っているなんて信じられるはずもなく、一年以上も浮気をしているのに全く見抜けないのは自分に関心が無いことに他ならない。

ただ、どこかで待ってもいたのだろう。

自分の浮気が恭一の目にさらされる日を。

そして彼が自分に執着してくれる日を。

けれど彼は一度も知佳子と向き合う事はなく知佳子もそんな日々に倦み自らの手で結婚生活を終わりにした。

 

傍から見ると離婚の原因とも言える瑠璃子との情事でも恭一は常に受け身だ。

「彼女がそれでいいって言ったんだ」

「結婚しててもいいって」

「そういう関係なんだよ」

妻帯者である男の見本ともいえる言い訳を口にする彼の口調は少々の焦りはあるものの、どこか幼く甘い。

テストの点が悪かった事を「頑張ったつもりだけどヤマが外れたんだ」と親に弁解する中学生みたいだ。

璃子と別れる事や知佳子に浮気が知られてしまう事以上に、目の前の今ヶ瀬に「駄目な男だ」という烙印を押されるのを怖れているように見える恭一は瑠璃子との関係も踏み込まない。

 

「私のせい?」

と離婚理由を彼女に問われ

「違うよ」

と言ってのけるのは強がりでもなんでもなく本当に「違う」のだろう。

知佳子同様瑠璃子に対しても正面から向き合う術を持たず、向き合う必要性すら感じていない恭一の本心がここにある。

 

表立って唯一今ヶ瀬とやりあった夏生への情を、恭一が最も持っていなかった事も観ていて切なくなった。

三人で話しあう、いや今ヶ瀬と夏生の二人が陣取り合戦を繰り広げるタイ料理屋でのやり取りは勿論、個人的に印象的だったのが泥酔した恭一を夏生が彼の家まで送り届けると玄関から今ヶ瀬が驚くでもなく静かに出てくるシーンだ。

 

夏生は明らかに恭一の部屋へ入るつもりだった。

そして彼と再び関係を持つ気満々だった。

 

そこへさっき

「あの頃さぁ、今ヶ瀬って恭一のこと好きだったんじゃない?」

と揶揄するように噂話をしていた男が親密な様子で扉から出てきて、これからヨリを戻そうとした元カレを抱きかかえているのだ。

しかも当の元カレは嫉妬混じりの声で相手にぐずぐず文句を言っているのだ。

 

プライドが傷つくとかそういう問題以前に恐怖すら感じる場面だと思う。

こんなにも「自分が眼中にない」を示される経験はなかなかない。

ホテルで欲情されなかった事よりも夏生の心に刺さったのではと何度見ても震える。

 

 

たまきに関しては三人の女性と少し違う感触を持っている。

知佳子も瑠璃子も夏生もそれぞれ打算的な面があり、恭一とお互いさまであるように描かれているが、一番打算的だったのはたまきだったのではないかと思うのだ。

 

打算的というか共犯者。

 

たまきは恭一が今ヶ瀬の影を追っている事を重々承知していた。

知佳子も瑠璃子も夏生も自分が恭一の中にいない事に疲れ去っていったが、たまきは端々に感じながらもそれごと引き受けようとしていた。

 

何故か。

 

「私はお母さんとは違う」

「この人に忘れられない人がいようと結婚しているのは私」

という事実が欲しかったのではないかと思うのだ。

 

両親に愛されなかった訳ではないだろう。

両親を憎んでいた訳でもないだろう。

 

それでも彼女はいわゆる「正式な婚姻」を望んでいたのだと思う。

その証を与えてくれるのならば、目の前の男の愛情が100%自分になくともかまわない。

だから彼女は食い下がった。

「このままそばにいちゃ駄目ですか」と。

 

全編、いわゆる「したたか」に描かれていた女達が私はいじらしくてならなかった。

 

今ヶ瀬の存在が、恭一の心に刻まれていく様をまざまざと見せつけられる度に、その思いは強くなった。

 

彼ら同様彼女達も美しい映画だったとため息がでる。

 

「まだ始まっちゃいねーよ」

題名に挙げた台詞は北野武作品「キッズリターン」ラストのものだ。

印象的なこの言葉は幾ら年月を経ても色褪せることなく、何かが終わった時や何かが終わりそうな時、そして何かが始まる時にあちらこちらでひょっと顔を出す。

 

私の場合は二年前でも一年前でもなく、今号「Talking Rock!」に掲載されたヤス君のインタビューを読んでいる間に降りてきた。

 

編集長によるほぼ二年ぶりの取材は丹念にその日々を追う。

満身創痍のGR8EST、感謝と追憶の15祭、5人の「関ジャニ∞」を象徴する47ツアー、忘れられない舞台となった「忘れてもらえないの歌」。

「過去に拘らなくなったからあまり覚えていない」と言いつつも、ヤス君の一つ一つへの思いが丁寧に紡がれ掬いとられ語られている。

 

どうしても避けられないし多分彼にとっては避ける必要の無いすばる君と亮ちゃん、内君の事に対しても(あくまで文中から感じるものだが)気負いは感じられない。

「あの時もう少しこうしていれば今も皆で同じ道を歩んでいたのかも」という後悔は垣間見えても「でも結果は同じだったのでは」と未練は見られない。

 

そして誌面上の肝として語られたのが、新曲「Re:LIVE」に関する事だ。

 

一番の歌詞を彼らが、二番の歌詞をファンであるeigterから募って作ったある種異色なこの作品がシングルになるとは到底思っていなかった。

ツイッターの声にもあったが、新しいアルバム内の一曲、もしくはカップリングに選ばれたら嬉しいなと私も思っていた。

それがまさか新しいシングル曲に選ばれるとは。

 

音楽面でグループを牽引していた二人が去ったとはいえ、ヤス君を筆頭にヨコさんも村上君も丸ちゃんも大倉君も各々技術を磨き高めている関ジャニ∞が新体制後に発売した「友よ」は、評判も上々、老若男女に好評で新たな層も獲得した。

その次を受けて発表されたのが「Re:LIVE」だった訳だが、少々不安もあった。

 

eigterである自分はめちゃくちゃに嬉しい。送った言葉そのものが歌詞に選ばれなくても彼らを応援する一人として企画に参加でき、尚且つその歌がシングルで発売されるなんて望外の喜びだ。

 

でも、内輪ウケと思われないかな・・・

ファンだけが満足する曲になってしまわないかな・・・

色んな人に聞いてほしいけれど先入観を持たれてしまわないかな・・・

 

 

 

結果としてそれらの心配は杞憂に終わった。

 

そして更に今号のヤス君の言葉で自分の思い違いを恥じた。

 

内輪ウケなんてとんでもない。

 

ファンへの思いは大切にしつつ、作品としてより高みに行こうと格闘する様子がそこには書かれていたのだ。

スタッフさんに煙たがられても真っすぐ自分達の「音」に突き進むヤス君の姿に、そしてそのヤス君の思いを総意とするメンバーの姿に冒頭の「キッズリターン」ラストで挫折と絶望を味わった二人の若者が口にしたあの言葉を思い出したのだ。

 

 

「俺たちもう終わっちゃったのかなぁ?」

「バカヤローまだ始まっちゃいねーよ」

 

決して過去をないがしろにせず、「あの日々なくして今はない」と歌う彼らは、変わりはしたが何も終わってはいない。

彼らの思い描く未来はいつも、いつだって始まったばかりなのだ。

 

 

最後に、すばる君の時もヤス君の時も毎回語られる「Talking Rock!」恒例?丸ちゃんエピソードは、今回もほっこり且つ愛たっぷりでにっこりする一方、切なくて胸がぐっとなった事を付け加えて終わりとする。